ショートヒストリー

創業前史1

大阪商船の設立

船出に手を貸した住友家初代総理事 広瀬宰平

大阪は日本海運の要衝であった。
江戸から明治へと時代が移っても、大阪の港には多くの船が往来し、賑わいを見せていた。しかし、その大半は個人が所有する小さな木造船だった。それらは「一船一主」と呼ばれた。小さな船の主たちは、限りある積荷を求めて、値引き競争を繰り返す毎日だった。船主たちが、一港一取扱所を協約し、会社を設立しても、すぐに協定を破る者が現れ、競争は激化の一途を辿った。

中原昌發は、そうした状況を憂える汽船取扱会社頭取の一人であった。このままでは日本海運の近代化は望めない。解決するには一大汽船会社を設立し、完全な企業合同を実現することである。
「これを成し遂げる力を持っているのは、あのお方しかいない」
 思い立った中原は、すぐに大阪を発った。向かったのは、愛媛県の新居浜であった。翌朝、中原は広大な屋敷の門前に立ち、案内を乞うた。面会を申し入れたのは、屋敷の当主であり、住友家初代総理事である広瀬宰平であった。

江戸時代の中之島付近地図(弘化4年版 1847年)

江戸時代の中之島付近地図 1847年

出典:ダイビル75年史 第1章より

広瀬宰平

広瀬宰平

出典:風濤の日日_商船三井の百年 第1章より

三十畳ばかりもある座敷に通された中原は、広瀬の登場を待った。床の間に掛かる狩野探幽画の掛け軸や、広大な庭に点在する桜をめでる余裕などなかった。やがて現れた広瀬は、鋭い一瞥を中原に投げると、黙って話を促した。旧知の間柄とはいえ、極度の緊張に声を震わせながら、中原は海運業界の惨状を訴え、協力を仰いだ。話し終えてからも、中原は何度も額の汗をぬぐった。薄暗い座敷に緑のまだ少し冷たい風が吹き抜けた。
広瀬の大きな頭が微かに動いた。
「ようわかった」
 広瀬の半眼の目はしかし、射るように中原を見据えていた。広瀬は続けた。
「協力しよう。だがこれは住友のためではないぞ。大阪の海運、ひいては日本海運の発展のためだ。それを忘れないように」
 中原は両手を畳について礼を述べた。そして、汗とも涙ともつかない濡れた額を着物の袖でぬぐうのであった。

のちに広瀬や中原らの尽力によって設立された大阪商船が、住友系企業とならなかったのは、一企業として目先の利益を追わず、日本全体の近代化を切に願った広瀬宰平の思いがあったからに違いない。
 1884年、大阪商船は歴史の大海に漕ぎ出した。その後、この大阪商船がダイビルの前身「大阪ビルヂング」の設立に大きく関わることになるのだが、それにはもう少し時代を下らなければならない。

参考文献:『風濤の日日 商船三井の百年』
『広瀬歴史記念館』住友グループ広報委員会ホームページ