ショートヒストリー

ダイビルの歴史4

堂島中1丁目1番地

戦後復興の象徴としての
新ダイビル南館が建つまで

1945(昭和20)年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によりアジア太平洋戦争は終結した。度重なる空襲で大阪平野は荒廃し、辛うじて戦火を免れたダイビル本館も、人々と同様、敗戦の虚脱に立ち尽くすかのようであった。しかし、灰に霞んだ街を横切る堂島川は、その水面にきらきらと夏の光をたたえ、まるで何事もなかったかのように静かに流れていくのであった。

終戦から間もない10月22日、ダイビルは「株式会社大阪ビルヂング」から「大阪建物株式会社」に社名を改称し、再起を誓った。戦後の激しいインフレーションや資材不足の中であったが、ビルの床や窓の修復作業など、できることから始めるしかなかった。さらにGHQの進駐により、焼け残ったビルの多くが接収の対象となり、ダイビルもまた例外ではなかった。

荒廃した諸設備の復旧を進めながらダイビルは、自身にとっての戦後復興の機会をうかがっていた。1950年、長らく経営を苦しめてきた貸室料の統制が解除され、一気に事業拡大の気運が高まった。そして、新ビル建設用地の調査が始まった。

土地買収計画図(1951年頃)

土地買収計画図(1951年頃)

新ダイビル第1期工事定礎式(1957年)

新ダイビル第1期工事定礎式(1957年)

第1期工事完工時の新ダイビル(1958年)

第1期工事完工時の新ダイビル(1958年)

いくつかの候補地の中から選んだのは、堂島米会所の跡地で、当時は米軍に接収され駐留軍の拘置所として使われていた用地であった。接収解除の見通しはなかったが、いずれ返還されるとの見込みから、ダイビルは土地の買収に乗り出した。地価のつり上げを防ぐため、東部予定地の地権者22人への交渉は極秘裏に進められた。1951年6月に買収は完了したが、西部予定地では東部の買収が噂になり、地権者24人への交渉は難航した。

1953年になると、予想よりも早くこの地が接収解除となり、ダイビルは東部地区だけによるビル建設の検討に入った。だが、朝鮮戦争後の急速な景気後退により、計画はやむなく断念することとなった。それでも遊休地として放置するのではなく、河岸地は緑地公園に造園して大阪市に寄贈し、広い敷地では野球グラウンドを設けてイベントの会場に活用するなどした。なかでも、米国のリゾート地を模した「コニーアイランドショー」や、国交正常化前の「中国貿易見本市」などは多くの来場者でにぎわった。

このような雌伏の時を経て、ようやくビル建設の機会が訪れたのは、神武景気が到来した1951年のことであった。用地取得から陣頭指揮を執り、誰よりも新ビル建設に情熱を注いだ日比文雄は、この間、専務から社長となってダイビルの経営にあたっていたが、病に倒れ、起工式への列席も叶わないまま帰らぬ人となった。

1958年4月、新大阪ビルヂング(現新ダイビル)南館は完工した。多くの社員や関係者が待ち望んだ復興の象徴である。この2年前に発表された経済白書の序文には「もはや戦後ではない」と書かれ流行語となっていたが、会社にとってはダイビル新館以来21年ぶりの新ビル建築であり、ここにようやく本当の意味での「戦後」を迎えたのであった。