ショートヒストリー

創業前史2

大阪商船中興の祖

大阪商船のルネサンスを築く4代社長 
中橋徳五郎

「私が社長を引き受ける以上は、必ず相当の会社にしてみせます」
 大阪商船のひっそりと静まり返った社長室に、中橋徳五郎の低い声が響いた。
「よろしく頼んだよ」

大阪商船3代目社長田中市兵衛は、深く腰掛けた椅子から頼もしそうに目を細め、娘婿の徳五郎を見上げた。大阪商船の将来が4代目社長としての中橋徳五郎に託された瞬間であった。

だが、強い決意を口にしたものの、徳五郎に確かな勝算があるわけではなかった。東京帝国大学を卒業以来、官僚として経験を積み、要職を歴任してきたが、実業界には初めて足を踏み入れるのであった。しかも会社は、日清戦争後の反動不況にあえぐ状態にあった。38歳、働き盛りの徳五郎は、海運の発展がすなわち海に囲まれた我が国への貢献であるとの信念を胸に、社業にまい進する決意であった。

富島町時代の大阪商船本社(大正3年)

富島町時代の大阪商船本社(大正3年)

中之島付近パノラマ図(大正時代)

出典:ダイビル75年史 第1章より

中橋徳五郎

出典:風濤の日日_商船三井の百年 第2章より

当時の大阪商船は、瀬戸内海沿岸を主な航路としていたが、徳五郎は台湾を皮切りに、朝鮮半島、中国に至るまで、一気に航路の拡張を図った。海運業で先を行く欧州の国々は、世界に航路を拓いており、そこに伍していくには大阪商船もまた、海外に目を向け、遠洋航路に進出しなければならないと考え、米国への視察にも出かけた。
また、会社は機構組織よりも人材であるとし、人を大事に育てることを意識した。徳五郎は加賀藩の下級武士の五男として生まれており、同じ出自の子弟を登用し、目をかけた。また、最高学府の出身者を積極的に社に迎え入れた。当時の会社は、まだ江戸時代の商家の雰囲気を残しており、働く者も丁稚から修業を積むという慣習が残っていた。当時としては特異な経歴の人材を要所に配したことで、会社は近代化し、発展を遂げた。

大阪商船中興の祖となった徳五郎は、後に政界に転身し、田中義一内閣で商工大臣、犬養毅内閣で内務大臣などを歴任した。また、徳五郎の長男武一は、父の志を継ぎ、1929年、大阪ビルヂング(現ダイビル)の第2代社長に就任した。会長職まで含めると、実に34年の長きにわたって会社の発展に尽力した。

参考文献:『中橋徳五郎上巻』
中橋徳五郎電気編纂会 編 1944年『風濤の日日 商船三井の百年』