ショートヒストリー
ダイビルの歴史5
目下ノ処不明
日比谷ダイビルを取り戻せ
いったい、いつまで待てばいいのか——
日比谷ダイビルがGHQに接収されてから、10年近くが経とうとしていた。サンフランシスコ対日講和条約の締結後、他社の接収ビルは相次いで返還されていたが、日比谷ダイビルは立地の利便性からか、返還はおろかその見通しさえ立たない状況であった。
日比谷ダイビルは、1927(昭和2)年の完工以来、芸術性豊かな壁面のテラコッタ(彫刻)によって、「お面のビルディング」と呼ばれ、人々から親しまれてきた。1931年に完工した2号館を含め、昭和を代表する名建築とも謳われたビルだ。多彩な企業が入居し、多くの人が出入りする活気にあふれたビルの様相は、戦争で一変した。
空襲による破壊こそ免れたものの、終戦翌年の1946年、日比谷ダイビルは接収、わずか2ヶ月の工事を経て、女性の軍人や軍属の宿舎に改装された。その名も「HOTEL OSAKA」。
今、その看板を見上げ、苦々しげな表情を浮かべる一人の男がいた。大阪建物(ダイビル)の社長、河井昇三郎その人であった。夏の日差しが路面から照り返し、陽炎が立ちのぼる午後……。ふと河井の瞳に鋭い光が揺れた。
いや、待っていてはだめだ。とにかく果敢に行動せねば——決意を固めた河井は、以後、再三にわたる返還の陳情を繰り広げることとなる。だが、返還促進の陳情書に対する返事は、ただの一度もなかった。
何の音沙汰もなかったある日、東京調達局から一通の封書が届けられた。返還予定時期についての回答書である。会社の幹部たちが見守るなか、昂ぶる気持ちを抑え、河井は封書を開いた。
「目下ノ処不明」
期待した分、落胆は大きく、また怒りも湧いてくるのだった。社長以下、社員の気持ちは一つになった。何としてでも自分たちの日比谷を取り戻してみせる。社を挙げた闘いがここに始まった。会社は回答書を不服とし、次年度以降の賃貸契約の調印を拒否、契約そのものの解除を申し入れた。しかし、東京調達局との交渉は平行線をたどるばかりであった。
この交渉に見切りをつけた会社は1956年、ついに国を相手取り、日比谷ダイビルの即時明け渡しと損害賠償請求の訴訟を提起するに至った。
社員一丸となった鬼気迫るまでの思いが通じたか、この訴訟は翌年、示談が成立した。そして、ようやく1958年12月1日、日比谷ダイビルは待ちに待った接収解除を迎えたのであった。
その後の日比谷ダイビルは、老朽化による建て替え工事が行われ、1989(平成元)年、地上21階の高層ビルに生まれ変わった。旧ビルから移設された獣面のテラコッタが、当時の面影を今に伝えている。とはいえ、このビルの前を行き交う人々の中に、旧ビル返還の闘いを知る人がどれだけいるだろうか。
社員自らの手でビルを取り戻したこと、自社ビルを自分たちで運営できない時代があったということを長く記憶にとどめるべきであろう。
GHQによる接収は、実に12年5ヶ月にわたった。