02 1927 1931 東京 日比谷ダイビル(1号館 2号館) 積極果敢な経営政策により
いち早く東京に進出

業容拡大を見越した布石

ダイビル本館の開業直後の1925(大正14)年10月21日、ダイビルの取締役会は「東京支店建築用地買収ノ件」として「東京市麹町区内幸町一丁目三番地ノ内約五百五拾坪ヲ壱坪ニ付金八百圓以内ニテ買入スルコト」を決議したが、この買収はここからわかるように当初は東京支店開設を目的としたものであった。大阪商船の東京支店が関東大震災によって焼失していたため、東京に新たな拠点を確保するという目的からであった。一方でダイビル側には首都である東京にできるだけ早く進出したいとの思いが強くあり、それが取締役会での決議につながった。しかしダイビルを取り巻く当時の状況はきわめて厳しいと言わざるを得なかった。10月1日にダイビル本館が開業したのだが、当時のわが国経済は低迷を続けており、1923年9月1日に発生した関東大震災がさらに壊滅的な打撃を与えていた。そうした中であえて東京進出を決断したのは、将来の業容拡大を見越して布石を打っておきたいとの狙いからであった。大阪で創業したとはいえ、やはりわが国最大の市場規模を持つ東京での事業展開は避けられないとの判断だった。

では、ダイビルが買収した東京市麹町区内幸町とはどんな町であったのか。江戸時代にさかのぼれば、いくつかの武家屋敷があったところであり、買収した土地には郡山藩柳沢家の武家屋敷があったとされる。柳沢家は江戸幕府における名家の一つであり、最も知られているのが徳川5代将軍の綱吉に重用され、大老にまで上りつめて栄華を誇った柳沢吉保だろう。その流れをくむ子孫が郡山藩主となり、武家屋敷を構えていたのである。

明治になると郡山藩柳沢家の上屋敷を接収し、東京府庁舎が開設された。やがてこのあたり一帯は入札に付されることになり、三菱社が落札、同社の所有になっていた。これをダイビルは1925年と1926年の2回に分けて取得したが、当時は関東大震災によって焼け野原になっていた。

麹町区は後に千代田区となるが、この地名にはちょっとしたエピソードが残されている。そもそも麹町という地名は町内に「小路(こうじ)」が多かったという説のほか、幕府の麹御用を務めた麹屋三四郎が住んでいたためという説、あるいは府中の国府(こくふ)を往来する国府街道の江戸における出入口、国府路(こうじ)の街であったからとする説があるのだが、近年の発掘調査によって、このあたりの屋敷跡地から味噌や麴を製造した手掘りの地下室である「室(むろ)」が数多く発見され、文字通り麹の産地だったのではないかともいわれている。

ダイビルが東京において記念すべき第一歩をしるしたのは、そういった由緒ある土地であった。