04 1967 東京 八重洲ダイビル 首都圏の表玄関というロケーションを生かすプロジェクトに挑戦

日本一が3つ重なった絶好のロケーション

ダイビルが東京で日比谷ダイビルに続く第2の本格的な貸ビルを計画したのは、東京駅の東側一帯を占めていた八重洲である。首都圏の表玄関ともいえる土地だが、その地名の由来は江戸時代初期にまでさかのぼる。1600(慶長5)年に来日したオランダ人航海士で家康の通訳も務めたというヤン・ヨーステンにちなむというから由緒は申し分なく、地名の由来が外国人の名前という点からも、江戸という町は当時、想像以上に国際的だったことが分かる。

  • 解体前の大阪商船ビル

江戸時代には江戸城の内堀一帯を指していた八重洲が注目されるようになったのは、明治になって西側に東京駅ができてからである。太平洋戦争末期には空襲によって焼け野原になったものの、戦後は1954(昭和29)年に八重洲口駅舎(鉄道会館ビル)が完工し、1960年代後半には大規模な八重洲地下街が段階的に建設され、人を集めていた。

ダイビルがこの八重洲に進出することになったのは、東京都中央区京橋にあった大阪商船ビルの敷地を取得したことによる。大阪商船が1943年に吸収合併した国際汽船が所有していた土地と言われるが、人が集まる首都の表玄関としての将来性を考えてのことでもあった。それだけにダイビルの八重洲への思い入れは強く、1965年1月8日に行われた地鎮祭で工藤友惠社長は次のような熱いメッセージを残している。「この度の建築は、日本一の八重洲口の場所に、日本一の村野・森建築事務所に設計していただき、さらに工事は日本一の鹿島建設の施工と、日本一が三つそろっておりますことは大変喜ばしいことであります」。八重洲という絶好のロケーションを得て、首都の表玄関にふさわしいオフィスビルを実現していくことがダイビルの目指したことだった。この設計も新ダイビルを手がけた村野藤吾に依頼された。