02 1927 1931 東京 日比谷ダイビル(1号館 2号館) 積極果敢な経営政策により
いち早く東京に進出

東京におけるダイビルの第1号として

取得した土地は東京市麹町区内幸町(現東京都千代田区内幸町)にあり、国会議事堂や諸官庁本省の新築移転予定地に近く、将来の発展が予想された土地であった。設計・監理はダイビル本館と同じく渡辺建築事務所に委嘱し、1926(大正15)年3月に日比谷ダイビル1号館の起工式を行った。完工は1927(昭和2)年7月であり、ここにダイビルの東京進出が果たされることになった。

日比谷ダイビル1号館は当時の表現を借りれば、「最新式で以て誇る大阪本館に較べ、あらゆる点において更に一段の工夫を凝らし改良を加えたるもの」を目指したものであり、その象徴がエレベーター、階段、湯沸室、お手洗いなどを中央部に集中して配置するセンターコアシステムであった。日比谷ダイビルで初めて採用された設計上の工夫であり、早稲田大学教授内藤多仲によれば、わが国におけるコアシステムの第1号であったという。

外観も東京におけるダイビル初のオフィスビルにふさわしく独特であり、特に軒蛇腹と7階窓台に国産テラコッタを使用した数々の飾り獣面や鬼面を装着し、そこから同ビルは長く「お面のビルディング」として道行く人に親しまれることになった。当時の資料には、ややオーバーながら「其壮麗なる外観は完備せる内容と共に、帝都第一流のビルヂングと称して恥かしからぬもの」と表現された。

折からの厳しい経済情勢から満室でのスタートというわけにはいかなかったが、それでも1927年9月末には74%の入居率に達した。テナントの中心は在阪企業ではあったが、それだけではなく外資系企業を含む多種多様なテナントで賑わうことになった。

満室での滑り出しというわけにはいかなかったのは、わが国が金融恐慌に見舞われただけでなく、開業2年目の1929年10月にニューヨーク株式市場が大暴落して世界恐慌が発生し、1930年には金輸出解禁、緊縮財政によるインフレ抑制策、海外市場の縮小、弱体企業の倒産、操業短縮と失業者の続出といった事態に陥り、わが国経済は病弊の極みに達していた。にもかかわらず、ダイビルは日比谷ダイビル2号館の建設に着手したのである。1929年6月、渡辺建築事務所に2号館の設計・監理を委嘱し、大林組と工事請負契約を結び、9月に工事は始まった。東京への進出を決断した時と同じく、将来の発展を見越したものであったが、しかしながらデメリットばかりではなかった。2号館の場合、建築費の坪当たり単価が1号館と比べて23円も安くなったことである。当時の慢性的な不況に伴う物価下落によるものであり、建築資材や労賃も低く抑えることができた、その結果であった。