01 1925 大阪 ダイビル本館 先駆的な取り組みによる
本格的貸ビルを実現

関東大震災で証明された耐震設計

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では震災後に印象的な情景が記録されている。壊滅的な被害を受けた東京の中でいくつかの建物が残されたものの、あるビルだけは無傷であったというのである。それが千代田区丸の内にあった日本興業銀行本店であり、わが国で初めて耐震構造が採用されていた。構造設計を担当したのは耐震建築の権威であった早稲田大学教授内藤多仲である。独自の計算法に基づく耐震耐火構造を実現しており、渡辺が設計した大阪商船神戸支店にも採用されていた。関東大震災級の地震にも耐えうることが証明されたことで、渡辺はダイビル本館にもそれを採用することになる。渡辺は「(ダイビル本館は)大阪で最初の耐震構造を有する建築物である」と語っているが、これが後のダイビルにおける耐震性重視の先駆になったことは言うまでもない。

耐震設計だけではなく、ダイビル本館はさまざまな面で渡辺の意向が色濃く反映された建築物となった。一つは国産品の採用を積極的に進めたことである。採算性を考えてのことだったが、渡辺はそれまで海外からの輸入品に頼るしかなかった建築資材の国産化を強く主張し、国内のメーカーに国産化を促したのである。その端的な例が国産テラコッタであり、大阪陶業(現日本ネットワークサポート)が渡辺の依頼を受けて試作を行い採用されたが、実はこれこそ国産テラコッタの始まりであった。その他、スクラッチレンガやリノリウム(東リ)、プラスター(飾磨化学工業(現浅田化学工業))に加え、便所のストールをニューヨークから取り寄せ、東洋陶器(現TOTO)に同型のものを製造させたりした。これによりダイビル本館の場合、使用材料の約90%を国産品で賄うことができた。

米国流の合理主義に基づき、建築費の算出で実費計算報酬加算式を採用したことも渡辺の意向であった。原則として必要な資材は発注者で買い求め、施工者には諸経費の手間賃のみを支払うこと、請負者は工期を保証し、工期遅延の場合は一定の補償金を払うこと、そして契約の当初に工事総額を予定し、これを超過した時、または余剰が生じた時は、その金額の何割かを工事予定額に加減する、という方式であった。これによって建築費を抑えることができ、開業後の採算性を高めることにつながった。