01 1925 大阪 ダイビル本館 先駆的な取り組みによる
本格的貸ビルを実現

かつて東京市を凌駕していた大大阪

明治維新以降、わが国における最大の都市は首都が置かれていた東京ではなかった。この事実を知る人は決して多くないだろうが、まぎれもない事実である。20世紀に入って日露戦争や第一次世界大戦などによって軍需が高まり、それに伴い、大阪では重工業が盛んになり、その隆盛から大阪市は「煙の街」「東洋のマンチェスター(英国の工業都市で産業革命において中心的な役割を果たした)」と呼ばれるほどの大都市となった。人口も急速に増え、1925(大正14)年には東京市の人口が199万5500人余りだったのに対し、大阪市は約211万4800人に達していた。大正から昭和にかけての1920年代、大阪市は人口、面積、工業出荷額ともに日本一であり、大大阪とも呼ばれ、東京市をしのぐ世界有数の大都市であった。世界中と比較しても6番目に人口の多い都市であった。内務大臣を務め、関東大震災後の東京市の復興を先導した後藤新平は「都市計画の範を大阪に求める」と発言したほどであった。

  • 江戸時代の中之島付近地図

それに伴い、大大阪時代には大都市圏としてのインフラ整備が進み、大規模な建造物も次々と出現することになる。御堂筋の大幅拡幅や大阪市営地下鉄が整備され、大阪市中央公会堂、大阪倶楽部、大阪証券ビル市場館などのビルが登場していった。やがて1930年代に大東京市が誕生すると第1位の座を東京に譲ることになるが、それまではわが国最大の都市は大阪市であった。

大大阪時代と言われたこの時期、その繁栄にふさわしいビルとして登場したのが大阪商船(現商船三井)の本社ビル、すなわちダイビル本館であった。

なぜ、大大阪にふさわしいビルと言えるのか。それは規模の大きさや高い機能性を備えていただけではなく、大阪市の中心地である中之島の一角に建設されたことも影響している。大阪商船は郊外である大阪府下北区富島町14番地(現大阪市西区川口3丁目7番25号)に本社を置いていたが、新たな本社所在地としたのは大阪市北区宗是町1番地(現大阪市北区中之島3丁目6番32号)であった。江戸時代の両替商・千種屋に連なる早川宗是が開発して居を構え、その後、鳥取藩の蔵屋敷になっていた土地であった。

蔵屋敷とは江戸時代、藩や幕府、旗本、社寺などが貢租米や特産物を売却するために建てた倉庫付きの屋敷のこと。天下の台所と呼ばれ、わが国きっての物資の集散地であった大阪には多くの蔵屋敷があったのだが、その蔵屋敷跡という点で中之島は大阪で最も由緒のある、いかにも大阪らしい土地柄と言えた。そして、そこに新たなビルを建てるという計画が進められたのが1920年代、すなわち大大阪時代にほかならなかったのである。