05 1984 大阪 堂島ダイビル 先駆けとなる空中権設定による
初のホテル建設

クラブ関西との空中権交渉

クラブ関西側は最初からダイビル側の意向を受け入れたわけではなかった。当初はクラブ関西側に土地の一部を譲渡してくれるよう申し入れたのだが、交渉は難航した。やむなく次善の策として提案したのが、クラブハウスを2階建てとし、3階以上建てることのできる空中権をダイビルが取得するという方法だったのである。2年以上におよぶクラブ関西側との交渉により合意に至ったのは、当時の経営陣をはじめとするダイビルの粘り強い交渉と官庁との折衝があったからであった。

1981(昭和56)年8月、ダイビルはクラブ関西との間で「土地共同開発基本覚書」を取り交わし、さらにこれをもとに「空中権設定契約」を締結した。その内容は以下であった。

  1. ダイビルはクラブ関西の所有する土地2722m2(823坪)の空間に空中権を設定する。
  2. 空中権の上下の範囲はO.P20mからO.P50mとする。
  3. 空中権に基づきダイビルが建築し得る建物の建築許容容量1万3690m2(4141坪)以下とする。
  4. 空中権設定の対価は地価の50%相当の12億6000万円とする。
  5. 空中権の存続期間は1982年10月1日より65年間とし、これを超えてダイビルの建物が存続するときは期間の更新について改めて協議する。
  • 空中権設定により可能となった23階建てのホテル建築

こうした交渉と並行して、会館の建て替えを検討していたクラブ関西に対し、共同開発ならびに総合設計による公開空地の提供を提案して受け入れられたほか、ホテル部分と一体になったクラブ関西の地下駐車場の使用と空中権の取得についても合意した。

この契約によってダイビルは23階建て延べ4万4700m2、500室の規模を持つホテルを建築することが可能となり、一方でクラブ関西もクラブハウスのリニューアルを実現することができた。なお、本件では両方の建物が一体性を持たさなければならないという制約から、2階部分を通路でつなぐことで一体性を持たせた。

空中権取得に関する一連の経緯を見ていたクラブ関西のメンバーたちは「結局はクラブもホテルも得をしたことになる。これぞ、大阪商人の知恵」と言って胸を張ったという。