04 1967 東京 八重洲ダイビル 首都圏の表玄関というロケーションを生かすプロジェクトに挑戦

屋上のサンクチュアリの誕生

この八重洲ダイビルでは、大阪の新ダイビルに続いて屋上樹苑を設置したことも、先に触れた「地域社会に対する機能的かつ景観的な貢献」の一つと言えよう。新ダイビルほど大がかりなものではなかったが、花を咲かせるためというより、木の実を結んで野鳥の食用にするための樹木のみを植えたため、多くの野鳥が飛来することになった。まさに東京という大都市の都心に出現した野鳥の聖域・サンクチュアリであり、1969(昭和44)年に発刊された海外向けの日本紹介誌「This is Japan 1969」ではずばり「Roof-Top Bird Sanctuaries」という見出しで、ダイビルの屋上樹苑の取り組みについての紹介がされている。

記事中には工藤社長の屋上樹苑に対する考え、信念が記されており、新ダイビルでわが国初の屋上樹苑を作った理由が表明されていた。「生きとし生けるものに対する責任、その生命を保護し、従って、その環境を保護する責任を、霊長は負わされているものと考えなくてはなるまい。自然保護の要請はここに淵源すると私は考える」という考えが吐露されていた。当時からすでに環境保護の必要性を指摘する声は小さくなかったが、工藤社長の信念ほど、自然保護に対する深い洞察によって裏打ちされたものはなかった。また、この記事で工藤社長は「東京におけるビルの屋上はほとんどが夏のビヤガーデンやゴルフ練習場、野球のバッティング練習場で使われることが多いが、この八重洲ダイビルを成功事例として屋上での緑地やサンクチュアリが増えていけばこんなにハッピーなことはない」といった旨の思いを打ち明けている。