03 1963 大阪 新ダイビル 大駐車場や屋上樹苑といった
時代を先取りした先駆的オフィスビル

大都市圏における都市再開発の動き

1950年代から1960年代にかけてわが国は高度経済成長を遂げるが、大都市圏における不動産産業はどうであっただろうか。

  • 渡辺橋 大江橋

    米軍の拘置所が置かれていた土地

わが国では経済成長に伴い、大都市圏への産業と人口の集中が進み、地価は上昇し、都心においてオフィスビルの建設が加速した。その背景には政府・自治体による法制度の整備があったとされる。1961(昭和36)年の市街地改造法(公共施設の整備に関する市街地の改造に関する法律)や都市計画法および建築基準法の改正による「特定街区」制度の創設、1963年の建築基準法改正による「容積地区」制度の創設、1966年の民法改正による空中・地中の区分地上権の創設などである。市街地改造法は大阪駅や新橋駅での駅前開発や複合用途ビルの建設に使われ、特定街区制度は容積地区制度と結びついて超高層ビルの建設を可能にした。そうした法制度整備の集大成となったのが1969年の都市再開発法であったが、逆に産業と人口の都市集中によるオフィスビル需要に応えるため、こうした法的な整備がなされたとも言える。

ダイビルは世界初の先物取引市場だったとされる堂島米会所のあった堂島の土地を戦後、米軍による接収解除がなされない段階で取得していたのだが、それはいずれ接収が解除されれば、まちがいなく発展していく土地であることを確信していたからだろう。その後のわが国の驚異的な経済成長を見通したとまでは言えないまでも、可能性は感じていただろうと思われる。でなければ、米軍の拘置所が置かれ、入り口には銃を持った衛兵が監視し、周囲には鉄条網を張った高塀が張り巡らされるといった殺伐とした土地を誰が買うだろう。

ダイビルはそうした土地を取得し、接収が解除されたのち、計画を進め、1958年4月に第1期工事を完成させるのである。これが新大阪ビルヂングすなわち新ダイビル南館であった。