序章 黎明期

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1922

序章 黎明期

日本海運界で確固たる地位を築いた大阪商船

明治維新以降、さまざまな経緯を経て日本海運の中心地だった大阪で誕生した大阪商船。
国内外に航路を拡大していったその躍進が大阪ビルヂング設立へとつながっていった。

1 大阪商船の設立

かつて蝦夷と呼ばれた北海道と日本海沿岸を結んでいた北前船が大阪から出帆していったことからわかるように、もともと大阪は日本海運の中心であった。明治維新後は平民でも船舶を保有することが認められたものの、わが国の海運の主導権を握っていたのは主に欧米の海運会社であった。外洋航路だけでなく沿岸航路においても日本に進出した外国商社が担うようになり、そうした商社の保有する汽船が瀬戸内海や九州航路での運搬を引き受けていた。こうした事態に対し、もちろん政府も手をこまねいていたわけではない。海外から買い入れた蒸気船を使い、大阪―横浜間の航路を開いたりしたが、これは主に公用に使われることが多く、事実上、わが国の海運は外国商社の独占状態にあった。

こうした状況が変わったのは1877(明治10)年に西南戦争が起きてからである。戦争に必要な物資や兵員を九州に運ばなければならないが、船舶には限りがあるため、海運業に進出してくる業者が続出したのである。ところが戦争が終結すると一転して船舶は過剰となり、汽船会社間の競争が激しくなった。とりわけ運賃引き下げによる客の奪い合いが顕著になっていった。

それによる弊害を危惧した関係者によって1881年に設立されたのが大阪汽船取扱会社であり、同時に運賃の協定も行われた。しかし、その後も競争が沈静化することがなかったため、もはや企業合同しかないとの結論に至った。すなわち一大船舶会社の設立である。ここで動いたのが大阪汽船取扱会社の業務を引き継いで設立された同盟汽船取扱会社の頭取であった中原昌發である。中原は住友家総理人であった広瀬宰平に協力を要請した。住友家だけでなく関西経済界の発展にも尽力した広瀬は、大局的立場からこれを受諾し、甥で後に第2代住友総理事となる伊庭貞剛に創立に向けて動くよう指示を出した。

複雑な利害関係が絡むだけに調整は容易ではなかったが、ダイビル(以下当社)の設立に中心的な役割を担うことになる大阪商船(現商船三井)は1884年5月、大阪府下北区富島町14番地(現大阪市西区川口3丁目7番25号)で開業した。資本金120万円、所有する船舶数は93隻であった。頭取には広瀬が就任した。